寺田さんを偲ぶ
友の会の客員会員で、私の良き理解者でもあった寺田博氏が8日にお亡くなりになった。脳幹梗塞の後、奥さんが3年間在宅で世話してこられたのだが、終わりはあっけなかったと言う。倒れた時点でもう覚悟は出来ていたが、お世話になった方が1人また1人と欠けていくのは寂しいことだ。
私が高校の頃、吉祥寺の駅ビルロンロンで園芸の催しがあり、そこに珍しい海外の種子が沢山並んでいて驚いたことがある。後で聞いた話だが、その仕掛け人が寺田さんだったそうで、私がその10余年後ワニ園でお目にかかるはるか以前に接点があったのである。氏は園芸文化協会の発起人の1人であり、日本ツバキ協会の理事でもあった。当時園芸界の指導的立場にあった平尾秀一氏の取り巻きの1人であり、その関係で球根の小森谷氏とも親交があった。余談になるが、アマリリス栽培家のバイブル、トラウブのアマリリス・マニュアルは、現在私の手元にあるが、元々は寺田氏の蔵書で、それを小森谷さんに貸してあったのを、わざわざ返してもらって私に下さったのである。ツバキ育種の権威、米国農務省のアッカーマン博士やカリフォルニア・ヌッチオ農園のジュリアス・ヌッチオ氏とも懇意で、積極的に海外交流も行っていた。そのおかげてカリフォルニアからツバキの切り花を空輸して熱川で開花させるという手法を開発、20年以上続いた熱川における世界のツバキ展の開催が可能になったのである。
私はワニ園就職直後に伊豆大島ハワイ植物園の管理責任者として大島に赴任し、そこで3年3月を過ごした。近くにお住まいだった寺田氏に初めてお会いしたのがその時。以後、夜時間をみつけては寺田さんの所に通い、植物談義に興じたのである。当時、氏はビニールハウスの中に作ったテントで寝泊まりしており、サバイバル生活の好きな氏らしい、ユニークな大島暮らしだった。
そんな寺田氏と私の最も楽しい想い出は、寺田氏夫妻と同行してカリフォルニアのヌッチオ農園を訪れ、その足でメキシコ入りして、当時氏が興味を示していたティランジアの自生地巡りをしたことである。生憎、メキシコ滞在中の1週間に2度も泥棒にあうという最悪の旅行だったが、終わってみれば笑い話、苦労を共にしただけ親しくなったということか。写真を見れば1988年5月とあるからもう27年も前の話なのだ。写真2枚はその時のもの。1枚目はテオティワカンのピラミッドを訪ねた時のスナップだろう。中央が寺田氏。寺田氏は見かけによらず、2000m程度の標高でも高山病の気があり、この時もピラミッドには登らなかった。2枚目はイダルゴ州メツティトラン渓谷の巌(Echinocactus ingens=platyacanthus)の山でのスナップだ。同行者は運転手で私の研究室の先輩関口さんと(右端)、尼崎フラワーセンターの森さん(中腰)だ。余談だが、この巌の山は日本人サボテン関係者の巡礼の地で、私も5~6回行っているはずだ。その1番景色のいい場所がビスタ・エルモーサという地名だったと思う。多分、ここのはずだが、そこには後年、私の恩師、伊豆シャボテン公園を作った近藤典生教授の遺骨が葬られている。
寺田氏は大島に骨を埋めたわけだが、そういう楽しい想い出を一緒にお持ちになったことだろう。
心から氏の冥福を祈りたい。合掌
私が高校の頃、吉祥寺の駅ビルロンロンで園芸の催しがあり、そこに珍しい海外の種子が沢山並んでいて驚いたことがある。後で聞いた話だが、その仕掛け人が寺田さんだったそうで、私がその10余年後ワニ園でお目にかかるはるか以前に接点があったのである。氏は園芸文化協会の発起人の1人であり、日本ツバキ協会の理事でもあった。当時園芸界の指導的立場にあった平尾秀一氏の取り巻きの1人であり、その関係で球根の小森谷氏とも親交があった。余談になるが、アマリリス栽培家のバイブル、トラウブのアマリリス・マニュアルは、現在私の手元にあるが、元々は寺田氏の蔵書で、それを小森谷さんに貸してあったのを、わざわざ返してもらって私に下さったのである。ツバキ育種の権威、米国農務省のアッカーマン博士やカリフォルニア・ヌッチオ農園のジュリアス・ヌッチオ氏とも懇意で、積極的に海外交流も行っていた。そのおかげてカリフォルニアからツバキの切り花を空輸して熱川で開花させるという手法を開発、20年以上続いた熱川における世界のツバキ展の開催が可能になったのである。
私はワニ園就職直後に伊豆大島ハワイ植物園の管理責任者として大島に赴任し、そこで3年3月を過ごした。近くにお住まいだった寺田氏に初めてお会いしたのがその時。以後、夜時間をみつけては寺田さんの所に通い、植物談義に興じたのである。当時、氏はビニールハウスの中に作ったテントで寝泊まりしており、サバイバル生活の好きな氏らしい、ユニークな大島暮らしだった。
そんな寺田氏と私の最も楽しい想い出は、寺田氏夫妻と同行してカリフォルニアのヌッチオ農園を訪れ、その足でメキシコ入りして、当時氏が興味を示していたティランジアの自生地巡りをしたことである。生憎、メキシコ滞在中の1週間に2度も泥棒にあうという最悪の旅行だったが、終わってみれば笑い話、苦労を共にしただけ親しくなったということか。写真を見れば1988年5月とあるからもう27年も前の話なのだ。写真2枚はその時のもの。1枚目はテオティワカンのピラミッドを訪ねた時のスナップだろう。中央が寺田氏。寺田氏は見かけによらず、2000m程度の標高でも高山病の気があり、この時もピラミッドには登らなかった。2枚目はイダルゴ州メツティトラン渓谷の巌(Echinocactus ingens=platyacanthus)の山でのスナップだ。同行者は運転手で私の研究室の先輩関口さんと(右端)、尼崎フラワーセンターの森さん(中腰)だ。余談だが、この巌の山は日本人サボテン関係者の巡礼の地で、私も5~6回行っているはずだ。その1番景色のいい場所がビスタ・エルモーサという地名だったと思う。多分、ここのはずだが、そこには後年、私の恩師、伊豆シャボテン公園を作った近藤典生教授の遺骨が葬られている。
寺田氏は大島に骨を埋めたわけだが、そういう楽しい想い出を一緒にお持ちになったことだろう。
心から氏の冥福を祈りたい。合掌
この記事へのコメント
奇遇ですね。吉祥寺で接点があったとは驚きです。もう55〜56年前の話ですよ。今でも寺田さんの奥さんとはやり取りしていますが、お元気ですよ。先日も切花生産しているフリージアを送って下さいました。
早速のコメントありがとうございます。
寺田さんはツバキの接ぎ木法や
アマリリス愛、アメリカへの情熱それはそれは尽きることのないお話をされました。園芸店は半分鳥類と小動物の販売店でもあったの
で、動植物の飼育が現在一生の生きがいである私にはまさにかけがえのない場と出会いだったのです。
親友の伊東に住む叔母が大島出身で、行った時に何気なく寺田さんの話をしたところなんと幼い頃隣に住んでいたから博ちゃん知っているとのことで、その事を寺田さんに言うと照れたような嬉しそうな表情をされていたのを思い出します。
寺田さんの紹介で長岡さんという園芸の先生の方と大船植物園に見学に連れていっていただいたり、寺田さんとの思い出は一生の糧となっています。
奥様とは園芸店で一度お会いしたことがあります。優しい方ですね。
お元気で何よりです。
寺田さんの影響を受けた方がおられるというのは嬉しいですね。
大島では奥さんと、寺田さんの次男と二人で切花生産をしています。寺田さんが現役の時はガーベラでしたが、その後病気で全滅したとかで、今はブバルディアとフリージアの切花みたいです。
もし奥様に連絡を取りたいのでしたら、研究室にメールして下さい。
wanien@fork.ocn.ne.jp